書評にかえて ― 脱北者救援をする立場からの視線
北朝鮮難民救援基金は、1998年設立以来、人権人道団体として活動してきた。北朝鮮の人権侵害が「非常に広範囲で、深刻で、組織的に行われている」と国連調査委員会(COI)が2014年「北朝鮮における人権調査報告書」を国連人権理事会に提出した。2015年12月に同文書は国連総会において決議(採択)された。日本から北朝鮮に渡った「帰還者(帰国者)」は9万3000人に上る。この書は自伝的な回顧録ともいうべきものだが、声に出すこともかなわず北朝鮮で絶命した人々の声を伝えているともいえる。
本書は、在日朝鮮人の目から見た1959年12月から始まった「帰国事業」の実際、「地上の楽園」北朝鮮での庶民生活、「極寒の豆満江」命がけの渡河、中国にはびこる脱北者ビジネス、スパイによる監視、密告、「脱北者狩り」、脱北者専用の収容所の生活実態が赤裸々に綴られている。
当団体は、人権人道に対する宣伝や講演会だけで、北朝鮮による深刻な人権侵害の犠牲者を救うことはできないと考えている。種々のキャンペーンとともに被害者を現場で救援、保護し、第三国の安全圏に誘導が必要と考えてきた。アメリカの南北戦争の時期、南部の綿花畑で働く黒人奴隷労働者を地下鉄道に乗せ、北部に送った黒人奴隷解放の精神にならったものである。
しかし私たちの地下鉄道に乗れれば、必ず安全圏に到達できる保証があるわけではない。それでも助けてくれと北朝鮮から逃れてきた人々のため、地下鉄道を補修し、新たに敷設し、救援ネットワークをつなぎ、安全圏に到達した人は200名をはるかに超える。日本をはじめ、韓国、オーストラリア、カナダ、アメリカ、イギリスと定住地は多岐にわたる。
著者の梁葉津子さんの一家も地下鉄道を利用する人たちだった。だが中国の公安の脱北者の追求捕捉の能力は私たちの安全確保作戦より優れていることもあった。複雑な経過をたどり、一家は地下鉄道に乗りそこなったが、最終的には、より安全な道を選択することに成功し、日本上陸を果たした。いつ北朝鮮に強制送還されるかわからないストレスも苦労も多かったが、今は「自由」を選択する自由を得ている。(編集部)
書評①―外からうかがい知れない貴重な証言 麻木久仁子・タレント
北朝鮮帰還事業とは「北朝鮮に帰国したいと願う在日朝鮮人の人々を送り返す」事業だ。北朝鮮は地上の楽園であるという宣伝が盛んに行われ、祖国に帰りたい人々を送り返すことは人道的な事業であると思われた。が、果たしてそれは「帰国」なのか。在日朝鮮人の多くは韓国出身であり、北朝鮮は「祖国」ではなかった。在日も2世からは「日本生まれ」なのであり、民族のルーツとしての朝鮮半島ではあっても、未だ見知らぬ国である。だが、その見知らぬ「祖国」へ「帰国」する人々は9万3千人を超えた。朝鮮総連が先頭に立って奨励していたが、与野党問わず日本の政党、多くのマスメディア、知識人たちも支持していた。ある種の熱狂が演出されていたと言えるだろう。だがその「地上の楽園」は虚偽であり、彼らを待っていたのは、ある意味日本にいるときよりも厳しい生活だった。メッキはすぐに剥がれ「帰国」する人は激減したが、すでに北朝鮮に渡ってしまった人々は、その後どんな運命をたどったのだろうか。そうしたことは、未だによくわかっていない。また、あのときに仮に善意からであっても虚偽の宣伝に一役買ってしまった者たちの責任も、検証されているとは言えない。そうして放置されているうちに、そもそも北朝鮮帰還事業というものがあったのだということすら忘れ去られようとしている。本書はその帰還事業で北朝鮮に渡り、のちに脱北して日本に「帰国」した一人、梁葉津子さん自らが綴ったものである。帰還した人々の生活がどんなものだったか外からはうかがい知れない中、貴重な証言である。
「帰国」してから、著者の人生は苦難の連続
著者は1943年大阪の梅田にて、ともに朝鮮半島出身の両親から生まれた。「北朝鮮は地上の楽園」「子どもたちも幸せになれる」「高度な教育も受けられる」といった話を信じた父の意志によって、1960年、家族で北朝鮮へ渡った。しかし、その「帰国の旅」は新潟から船に乗った瞬間から不安に満ちたものになる。そしてそれは、現地について決定的なものとなった。「地上の楽園」などそこにはなかったのだ。
北朝鮮に「帰国」してから、著者の人生は苦難の連続だった。貧しい暮らし、厳しい労働、必死に家族を支える日々。しかし日本に残った兄からの仕送りは途絶えがちになり、凶作が重なって食料の配給も止まってしまう。もはやこれまでと追い詰められた著者はついに脱北を決意するのだ。1997年4月。暦の上では春といっても、ついこのあいだまで氷が張っていた豆満江の冷たい水の中に入っていく。波乱万丈の物語がはじまる・・・。
1度目の脱北で中国内に潜伏し、日本へ向かう機会をうかがっていたが、北朝鮮の保衛部に見つかってしまい、北朝鮮に連れ戻されてしまう。国家を裏切った者への仕打ちは厳しい。さらに偏狭な土地へと追放され、再び苦しい生活を強いられる。そんな中でも、再び脱北の機会を探り続け、ついに再び豆満江を渡るが、今度は中国の公安に捕まり、劣悪な環境の拘置所での生活を強いられ・・・。
18歳で北朝鮮に行き、そこで40年を過ごし、ようやく日本の地を踏むまでに著者が体験したことは、まさに壮絶で、一人の人間の身の上にこれほどのことが降りかかるのかと驚くばかりだ。が、次々に襲いかかる過酷な運命の中で、著者の「生きる力」の強靭さには胸を打たれた。
そもそも脱北の決意をするというのは余程のことである。北朝鮮に住み、著者のような境遇に置かれているものは数多いるが、誰でもが脱北を実行できるわけではない。川を渡るときに見つかれば撃ち殺されるかもしれないし、渡りきったところでそこは頼るものもない中国。身ひとつだから荷物も財産もない。当局から身を隠しながら働くなりなんなりして日本へ渡航するための資金を調達し、そのためのルートも確保しなくてはならない。それを一人でするのだ。そういう決意を固めて実行する。1度目に失敗し、追放処分を受けた身にとって、2度目はさらにリスクが高い。失敗したら今度こそ命がないかもしれない。しかしそれでも再び川を渡る。不屈の意志はどこから生まれるのかと思う。
どんな境遇でも、著者は生活力を発揮する
追放された山奥の村では、水道も引かれておらず、といって水を汲むバケツもない、ないない尽くしのところから生活を立てなくてはならない。が、たちまち村人たちにつてを作り、釜をもらったり、ジャガイモをもらったり。人とのつながりをたちまち作ってしまうのだ。やがては大量のトウモロコシを調達して酒を作って売ったりするまでになる。その酒の味がよいと評判になり、村の近くにいる軍隊に伝わって、兵士が作るトウモロコシと交換できるようになり、それでさらに酒を作ってと、まるでドラマのようだ。
拘置所でも人との繋がりを作る力が発揮される。捕まった人たちは、己の行く末を悲観し絶望し、投げやりな気持ちにもなるだろう。だがその中でも著者は思うのだ。雑居房のすさんだ生活は人の心をすさんだものにする、だからこの雑居房を人間らしい場所にしようと。きちんと起きて寝具を畳み、当番を決めて掃除をし、食器や飲み水を清潔に保つなど基本的な生活習慣をみんなで守れるように、同じ房にいる人々を粘り強く説得する。その分、病人が出たり、喧嘩や事故などがあれば担当者に交渉して解決のために力を尽くす。どんな場所でも人間らしくあろうとし、人々にもそうあってほしいと思い、その思いで人を動かし、信頼を得ていく。その姿は実にたくましく、人としての強さとはこういうことか、生き抜く力とはこういうものかと思わされる。
人としての道を捨て獣になってはならない
北朝鮮の全体主義的体制において生き延びるため、人を裏切り、あるいは騙す。そういう人物も登場する。あるいは金に目がくらんで、助けをもとめてくる人々を金蔓としか見なくなる人物もいる。スパイによる密告や、中国にはびこる脱北者ビジネスなど、人の醜さの種はごろごろとあるのだ。だが、自分がこの環境にいたならばどうだろうかと想像すると、むしろそうした、心を失ってしまった人々の方に近いなと思うのだ。だって生きていくためには仕方ないじゃないかと。だが著者はきっぱりと言う。
“この拘置所で、捕まっている人たちの話を聞いていると、追い詰められた人間が生きていく道とはなんだろう、と考えるようになりました。いやおうなく選択を迫られ、しかも人としての道を捨てて獣になる以外に、道は残されていない。そうなったとき、人間はなんでもしてしまうものなのでしょうか。もちろんわたしも、その中の一人です。だからこそ、獣になってはならない。わたしは心の中で、いま一度そう自分を戒めました。“
ついに無事に日本に辿り着くが、あるいはそれは運が良かったのかもしれない。捕まって連れ戻され、その消息が誰にもわからない人がたくさんいるだろう。誰でもが著者のように生きられるわけではないかもしれない。が、この波乱の半生を語る言葉を読んで、どんな時代のどんな国に生まれようとも、人としてこうあるべき姿というのがあるのだという、普遍的なメッセージを感じた。
北朝鮮にはまだ残っている著者の家族がいるという。これほどのことを語ってくれるのは、とても負担でもあっただろうと察する。が、同じような思いの中で必死に生きている人々が大勢いることを伝えてくれる、大切な一冊であると思う。この本を世に出してくださったことに感謝したい。
書評②―『冷たい豆満江を渡って』を読んで 田村香純・会社員 (東京都)
過酷な体験談でありながらも、著者の前向きな思考と行動に対して、また、正常な心を維持するのに精一杯だった精神状態にあっても、他者への理解と思いやりに、共感と尊敬の念を覚えました。私が同じ立場だったら正気を失っていたのではないかと思います。監視されていた村での生活や交流、暴力団の存在についても興味深く読みました。
また、民族教育を受けた在日コーリアンの私にとって、過去の大がかりな帰国事業がどのような形で行われたかを’知ることになり’久しいですが、改めてその罪深さをこの本を読んで実感せざるを得ませんでした。中には、日本で生きて行けずに自ら希望して帰国された方もいたようですが、その選択の正否は様々かと思います。
著者のように、自身で選択することも出来ずに帰国し、後悔し、故郷と感じる日本に帰る為だけに、大切な家族を残し、命を懸けた人々がどれだけ沢山いたことでしょう。豆満江には、沢山の命が宿っている悲しい川だと思いました。
著者の言葉通り北朝鮮の人々が幸せに暮らせる為にも、人権問題の解決においても、南北統一が一番の解決策だということについて全くその通りだと思います。貴重な体験談を本にして下さり、有難うございました。
書評③―色々なことを考えさせてくれる著者に感謝 斉藤里子(埼玉県)
私と同じ年に生まれた著者の北朝鮮における壮絶な体験を信じられない思いで読みました。著者が北朝鮮に渡った頃は、戦後15年ほど経っていて日本の復興がかなり進み、将来に夢が持てるような社会になっていました。それでも、両親と離れたくない思いと日本における居心地の悪さが渡朝の動機となったのでしょう。この北朝鮮への「帰国事業」は、満州事変以降、日本でも国策で満州行に駆り立てられた多くの農村の次男三男と同じく、楽園を夢見て出かけて行き、苦労した人々に重なる印象を持ちました。
両親と渡った北朝鮮は、金正日の独裁体制下で仕事の少ない中、食料が配給制であったと知って大変驚きました。日本でも終戦直後は食糧の配給のために「米穀通帳」や「配給券」もあったのですが、長くは続かなかったように思います。まして、戦後15年以上も経っての配給制が生きているのは大変な驚きです。
17歳の少女が貧しい生活の中で朝鮮語を覚え、生きる知恵を獲得していく姿や、結婚や子育ての苦労が赤裸々に綴られており、脱北への動機が徐々に熟成されていく様子がよく伝わってきます。
せっかく脱北した中国に北朝鮮の保衛部の人間がいて、中国朝鮮族の密告者を使って脱北者を独自に拘束、拉致しているのは驚きです。中国と北朝鮮の往来はそんなに簡単にできるのか。両国関係はどうなっているのか気になります。
北朝鮮に戻された脱北者の拘置所も国内の一般社会も同じく食糧難に変わりはなく、「新入り」は5日間、古株の拘留者に配膳された食べ物を差し出す掟があるなど驚くことばかりです。また、手柄を立てれば韓国に行けると思い込んで、他人の子を殺して手柄を立てたと思い込んだ女性が入牢してきたことなどが紹介され、著者にも理解できない人間がいると驚きを赤裸々に描いているのを知って愕然としました。
その後、受刑態度が良好と判断されて、僻地の山村に追放された土地にさえ保衛部の密告者がいて落胆する著者の姿には同情を禁じ得ない。そこから別の場所への引っ越しに成功し、そこで巡り合った、夫を餓死で失った女性に「ここはあなたが住むところではない。行きなさい」とより中国の国境に近い場所への移動を勧める「後押し」に救われた気持ちになる。脱北準備のために行方をくらましていた三男が戻ってきたのを機に再び一緒に豆満江を渡り中国に行くのです。生きるためには何とか合法的な身分を手に入れたい、合法的な立場を装うために年金暮らしの老人との結婚生活さえするたくましさを持ち合わせている。なんと生命力の強さを持ち合わせているのか感心します。この時に日本のNGOに会う機会があり、日本に帰る可能性があると分かり、半信半疑ながら日本に帰りたい、実現してほしいと伝えました。多分これで希望が開けると信じたい気持ちが勝ったのでしょう。そんな姿が浮かびます。映画を見ているようなのですが、突然今度は中国公安に捕まってしまいます。中国朝鮮族の密告者に刺されたのです。結局、密告奨励金につられて、自分の利益のために密告をするのは中国ではよくあることだそうです。奨励金を出して密告をさせるのがこの国の事情だと言うのも、私たちには新しい発見でしょう。
今度は、北朝鮮に強制送還される脱北者専用の収容所に入れられ、送還されるのを覚悟したと言うのですから絶望する姿を想像します。ですが収容者が次々に出所し、新人の収容者が入って来るのに自分だけが拘留されたままなのです。どうしてなのか疑問に思い担当の看守の幹部に尋ねると「あなたは日本に行けることが決まっている」「上からの指示を待っている」と言うばかりで結局1年半も留置されていた。よくぞこのフラストレーションに耐えたものと感心するばかりです。
これまでの経緯からどんでん返しがあって北朝鮮に送られるかもしれない恐怖と、日本に行けるかもしれないとの両極端を毎日繰り返していたと思うと、タフな著者であるからこそ精神的平衡が可能であったのかもしれない。ただ日本に帰りたい一心が支えたのかもしれないです。
希望通り日本に帰るのが決まった際の、日本領事館の担当職員の迷惑気な態度には中国の役人もあきれていたと聞いては、一言言っておかなければ気が済まないのは理解できます。北朝鮮による日本人の拉致事件がいつまでも解決しないことの一因は、他人事としか捉えられない日本人外交官の姿勢にあるのではないかと思ってしまう。私はただ厄介な外国人でしかないのか。色々なことを考えさせてくれる著者に感謝し、本を閉じた。