成国の挑戦―遥かなる旅路 第2部 宋恵恩訳
母親がいなくなり、親戚中をたらいまわしにされ、養子に出されそして再び親戚の間に母親の消息を求めて苦悩する。人民軍に入隊すれば母親には会えなくなる。それを避けるためには危険な鉱山で働くしかない。だが鉱山で生き埋めになりかけ、九死に一生を得て再び母親の消息を求めて歩き出す。(編集部)
9年間暮らした養父母の家を出る
2009年8月14日、養父母に引き取られて一緒に成長していた兄さんが友達と川に遊びに行き、溺れ死んだという事件が起きた。それから、私に対する養父母の態度が急変し、辛く当たるようになった。少しばかり、何か問題があれば鞭うたれ、ひどい言葉を浴びる。こうして血と涙の日々が過ぎて行った。
2010年8月20日、養母と妹が咸境北道鏡城(ハムギョンプットキョンソン)にある実家に行った。鏡城の実家での家事は、江原道の時と比べると一層大変なものとなった。家畜を放牧し、農作業もし…。本当に余裕もなく、くたくたになるまで働いた。
9月のある日、私は鶏のひよこ一羽をどこかで失くしてしまった。ひよこのことで、養父は私をひどく苦しめた。鞭うたれ、ひどく怒り憤った。こんなに働いているのに、さんざん悪口も言われ…。ひよこ一羽でこれほどの仕打ちをする人たちの気持ちが理解できなかった。この家では自分の存在価値はひよこ以下であった。
次の日、2010年9月10日、ついに両親を探しに行かなければという決心を固め、家を離れることにした。いざ離れようとすると最初に思い浮かんだのは、担任の先生と同級生の姿だった。いつも私に力と勇気を与えてくれて、暖かい愛で面倒を見て下さった先生!肩を組み、学生時代夢を追いかけた同級生のみんな!慣れ親しんだ母校よ、お元気で!同級生のみんなも元気でな!もう行くよ。こうして、9年暮らした養父母の家を出た。
父母の名前を知らない。父母の実家を探すしかない
余りに幼い時に両親と別れてしまったので母の名前も父の名前も知らない。ただ単に養母の実家を探すしか方法がなかった。実家の名前のみを頼りに探すのは、原っぱで針を探すよりも難しい。私はこんなつらい人生で一生が終わるのなら、自分の両親のもとで死のうと決心を固めていた。
いったん決心を固めると、怖いものなどなかった。私はお金も持たず、ご飯も一食分だけ用意して家を出た。平康(ピョンガン)駅まで行ったが、トンネルが崩れたせいで細浦(セポ)駅から列車は出発するとのことである。平康から細浦までは百里以上の距離がある。
まず線路に従ってずっと歩いた。歩いている真最中に、後ろで誰かが呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、軍人2人が私を呼んだのだった。そこで軍人は私にどこまで行くのか尋ねた。私は簡単に咸境北道鏡城までと伝えた。すると彼らも、われらも咸境北道(ハンギョンプクド)まで行くので、一緒に行こうと言ってくれた。内心一緒に行ってくれる人に出会えて嬉しかった。
ただ、軍人たちは歩くのがとても速く、ついていくことが出来なかった。彼らは私を見て、早く来いと手を振った。息切れ切れになりながらも走り、早く歩き、なんとか必死についていった。そして、夜遅くに細浦駅に到着した。細浦駅に到着するや否や列車がやってきた。列車に乗ると、足の痛みを感じ、お腹もすいてきた。
しかし、家を出る時持っていた一食分はすでに食べてしまったので、食べるものは何もなかった。ぎゅっと目をつむって、空腹に耐えるしかなかった。それを察した先ほどの軍人2人がチヂミ二枚を私にくれた。あっという間に食べ終えてしまった。食べ終えると今度は眠気が襲ってきた。朝起きると、大分遠くまできたようだった。あと一駅過ぎれば高原駅である。この駅で列車を乗り換えなければならなかった。
乗換駅の1駅手前で取り締まりを受ける、振出しに戻るのか
しかし問題があった。鉄道公安の取締りをうけたのである。私の学生証明書を見て、保証人は誰かと訊ねられた。「いません」私はおどおどした態度だったのだろう。簡単に「いません」と答えたところ、他の公民証を持たないおよそ50名と一緒に列車から下車させられた。そのうち二人は子どもであったのが幸いしたのか、私も年齢の割に体も小さくやせ細っていたので手荒に扱われることはなかった。
だが、目的地の駅の一つ手前で私たちが降りると、列車は行ってしまった。 鉄道公安官は保護者のいない子ども二人を、細浦方面の列車に乗せて、送り戻そうとしていた。どうしたらいいのだろうか。高原まできたのにまた細浦に再び戻ってしまうのか?細浦の一つ前の駅に戻り、列車が一時停車すると、ドアが開いた。ここで降りなかったらまた平康まで戻ってしまう。ためらわず駆け降りた。
そして反対側から来た列車に飛び乗ろうと高原駅の方向に走り出した列車に向かって一生懸命走った。結局何時間も歩いた末、私は高原駅に着いた。すぐ他人に咸境北道行きの列車があるかどうか尋ねた。幸いなことに列車は午後2時に出発するとのことだった。時間は午前11時を少し過ぎていた。
カバンの中には食べ物はなく、靴1足が入っているだけだった。私が江原道の平康を出発する際に、養父が軍人だったのを利用し、軍隊商店で大変割安の値段で購入してカバンに入れたものであった。金が必要になったら売れば利益になる。
道路端に物を運ぶ簡単な手押しの軽四輪を屋台にして出しているおばあさん、おばさん達が並んで商いをしている。その中の一人のおばさんによると、市場は正式には午後2時から始まるとのことだった。あいにく私の乗る汽車は午後2時、列車が入線する時間と同じである。
どうしようか。私は仕方なく帰ろうとしたところ、おばさんが何か買いたいものがあるのかと聞いてきた。買いたいものがあるわけではなく、売りたいものがあるのだと伝えた。おばさんはじっと私を見つめて、私を助けるかのようにそれを買おうと言ってくれた。私は300ウォンで靴を売った。
そして、その金でそうめんと梨1kgを買い、かばんに入れた。午後2時になると大勢の人が駅の方に集まってきた。私はすぐに駆け付けて列車に乗り込んだ。私はまた列車で取締りを受けるかと不安になり、一番後ろにある食堂車両のドア付近で眠りについた。寝ていたら誰かが私を起こしに来た。私はぞっとした。
鉄道公安官だったらどうしようか?静かに目を開けたら食堂車のお姉さんだった。ほっとした。彼女は私にどこまで行くのか尋ねた。私は鏡城まで行くと伝えると、彼女は遠いところまで行くのねと言い、自分の部屋に連れて行ってくれた。彼女はここでなら安心して寝られるよと言い、ドアを閉めて出ていった。その車両は中央に食堂がある車両だったが、あまり人が来ないところだった。しばらくして、さっきのお姉さんがご飯を持ってきてくれた。私は感謝を伝えた。彼女は特別に私によくしてくれた。
実家に戻った養母と妹に鏡城で出会う
次の日の午後、鏡城に到着した。こうして、9年前、誰の見送りもないまま離れたこの場所に、誰の迎えもないまま再び戻ってきた。降りるとなんだか新鮮な気持ちがした。その日がまさに、9年後の2010年9月12日だった。外はあっという間に暗くなっていた。
私は駅前の待合室で一晩を過ごし、父方の祖母の友達のハン・ボクドクおばあさんを探そうと、その名前だけを頼りに鏡城中を歩き回った。一晩中歩き回っても、知っている人は誰も見当たらなかった。仕方なく駅前の待合室に再び戻った。
私はもう完全に孤児になってしまったか、と考えていた。すると、待合室で隣に座っていた客が私にどこから来たのかと声をかけてきた。その客は私とそう変わりのない乞食のような身なりだったので警戒心も抱かなかった。
私の話を注意深く聞くと、かばんに何が入っているのかと再び尋ねた。私は「着ていた服しかない」と答えた。その人は、私におなかが空いているだろうから、そうめんでも食べに行こうと誘った。食べ物の話に心が惹かれたが、その人にお金を持っているのか聞いた。自分が食事代を払う羽目になったら大変だ、と頭を不安がかすめた。
彼は市場で古びた服も受け取って、それをまた売りする仕事のようだ。大人のコッチェビ(浮浪者)のようだ。私のかばんの中にある服を売ってくれと頼んできた。それは、ご飯を食べてから考えよう。私は彼について屋台の方に向かった。
そして、服を売ろうとした途端、誰かが私の腕をつかんで、私の名前を呼んだ。振り返ると、実家に戻った養母と妹だったのだ!お互いに驚き、私にこう聞いた。「家はどうしたのか」、「どうやってここまできたのか…」私は初めから終わりまで起きたことすべてを話した。養母は話を聴いたあと、私をどこかに連れて行こうとした。なんと私の祖母の家に向かっているのではないか。それも鏡城駅のすぐそばにあるところだ。あぁ、ここは私が何度も行ったり来たりした場所ではないか?養母は祖母に私を引き渡し、祖母の言う通りにするよう伝えて去ってしまった。
9年間の召使生活は幕を閉じたが、祖母が出て行けとは…
このようにして9年もの召使生活は幕を閉じた。祖母は私を養子に出した時から家計はさらに苦しくなったようだ。車もなくなり、狭い家で暮らしていた。
祖母、叔父、叔母は私に会っても喜ぶ様子はなく、また養母のところに戻るよう促した。祖母にとって私は実の孫であり、叔父と叔母にとっては実の甥であるのに、なぜそんなに私が嫌いなのだろうか?どうしてこんなにひどくなれるのだろうか?
私を9年もの間、他人の家で召使いのような生活をさせ、もどって来たら来たで出ていけと言い、度が過ぎるのではないか。良心の呵責もないのか。私は怒りを抑えられず、無念の気持ちでいっぱいになり、また涙があふれた。
しかし腹違いの兄さんが、さっと私のところにやってきて、私に会えたことを喜んでくれた。兄さんだけが私を迎え入れてくれた。やはりである。母は違っても、父は同じであるから、立派な血のつながった兄弟である。
兄さんと祖母は関係がよく、一緒に暮らしたい気持ちがあるようだ。とりあえず兄さんは私を連れて、トウモロコシ畑の仕事をしに行くと伝えて出かけた。祖母は私を引き留めることなく、清津にいる父に、私がきたことを連絡したようだ。父も私が来たことを聞いて、早く会いたいと思ったのか、清津(チョンジン)市まで送ってほしいと伝えたようだった。
父のいる清津へと向かった時は、ちょうど兄の誕生日で、私の3日遅れの15歳の誕生日を同時に祝ってもらった。清津の停留所で父が待ってくれていた。その日は雨が降っていた。父は傘を持っていたが、眼鏡をかけた姿をみて、一瞬で父だと分かった。こうして9年ぶりに父との再会を果たした。(第3部へ続く)
<注>文中の人物名は関係者の生命の安全を考慮して一部変更してあります。 (編集部)