韓鳳姫さんとの18年目の再会 北朝鮮人権侵害啓発週間のイベントに登場
『脱北者』の著者・韓元彩さんの娘が語る脱北事情
韓さんの脱北事情:解説 加藤 博
北朝鮮難民救援基金ができた目的は、北朝鮮国内の深刻な人権侵害、食糧不足、飢餓から逃れて、脱出した人たちを助けて、安全な第3国への移動そして司法手続きに乗せることです。北朝鮮難民として本人が望む所に行くのを助ける作業をします。1990年代後半は、どういう年代かといいますと、北朝鮮の国内の事情が悪い時期でした。北朝鮮の言葉を借りると‘苦難の行軍‘の時代と言われて、北朝鮮の食料危機が始まって政治的な危機が始まる、そういう時期でした。
沢山の人が、北朝鮮と中国の国境を越えて逃げてくるそういう時代です。それは一般の人たちだけではなくて、政府の中枢を含めて、様々な理由で北朝鮮から中国に逃げてきました。私たちの団体はその時代1998年から始まりました。
それ以前に団体ができる前に、ここにいらっしゃるキム・サンホンさんと一緒に北朝鮮から出てくる子供たちを助けるという仕事をしていました。その頃の事情をお聞きください。私が先ほどお話した韓元彩(ハン・ウオンチェ)さんが書いた原稿は『脱北者』(晩聲社刊)という本になっています。
しかし、これもすでに販売ができない、絶版になってしまったので、皆さんがどうしても読みたいというならば、ここに残った3冊をお求めいただくかAMAZONで検索をしていただいて手にいれるかしかないそういう状況になります。
著者の韓元彩さんとの出会いは2000年だろうと思います。私とここにいらっしゃるキム・サンホンさんが韓さんと中国の吉林省延吉市で会いました。そこで韓さんが持っていたのはこのくらい厚い、10センチ近くある、原稿でした。それを必ず日本で出版してほしい。出版することで収益があれば、その収益で私たちの家族を安全なところに移動させてほしいという願いでした。私は原稿を受け取ったその場で家族全員をすぐに安全な所に連れていくだけのお金をお渡しすることはできませんでした。原稿は本になって初めて現金になります。その当時活動を始めたばかりの私たちは、お金がありません。自分たちが救援活動で、食費と宿泊、それから中国を出国するときに支払う100人民元の出国税をどうやって自分のポケットに残して飛行機に乗るか、自分たちの頭がいっぱいだった時です。
あと一つ言わなければならないことがあります。脱北者の救援は、いかに中国にとって嫌なことであるか、北朝鮮はこんなことを書く人間を助ける人はすべて拘束しなければならないという考えです。こんなに分厚い原稿の束を私が手に中国出国できるだろうかどうか考えました。どうしても日本で出版してほしい、という韓氏の強い希望でしたから、それを考えなければいけません。怪しいと思われたら荷物全部調べられ、すぐ発見されてしまいます。
私はその原稿を三部コピーしました。一部は私が持って、一部は日本でも、韓国でもない場所に航空便で郵送をして、一部はまた別の人に持たせて、そういう形で、だれが失敗しても一部はどこかで安全に原稿を確保できることになる三分の一の可能性にかけました。そうして原稿はなんとか日本に着きました。
次は、韓さんの願い、「原稿を出版してほしい、その収益で家族を助けてほしい」という願いをどう実現するかです。原稿はすぐにお金にはならないですね。原稿は出版社が出版しましょう、となった時、印税として支払われるわけです。しかし、いつ出版されるか分からない原稿を持って出版社を回っていたらこの家族の運命はどうなるか分からない。切羽詰まった状況で、私が本を出版したことがあった晩聲社という出版社に行って、状況を説明し、本を出す前にその原稿料をくださいという常識外のお願いをしました。出版社は、本にならない前に、稿料を出さないことは普通ですけれども、私はそんなことで躊躇していられないから稿料相当の現金をくださいと、頼みました。その時はそうするしか道がなかったのです。社長から稿料の前渡し金をいただいて私は中国に行きました。私が日本で必要な経費を調達している間に、中国に残された一家にはいろいろな事件が起きていました。韓さんの家族は、安全に過ごすために両親と子供が別々に住んでいましたが、韓元彩さん夫婦が北朝鮮から派遣された保衛部によって拘束、北朝鮮に強制送還されてしまったのです。
私は調達した金を李社長に渡してこの家族をなんとか安全なところまで連れていくことを頼みました。李社長が3人のこどもを連れて、山東省の大連の隠れ家に行きました。その時ですから、もう18年も前でしょう。ですから子どもたちも皆独身で若かった。たまたま今回日本に来れる条件があったので次女の韓鳳姫さんに来ていただきました。非常に苦労されて韓国に定住し、今では立派に病院の経営者になっています。
これから韓鳳姫さんからお話をしていただきます。
父の願い 北朝鮮の現実を世界に知らせたい
今日は。北朝鮮の人権問題に関心を持っていただき、この場に参加してくださった先生方、本当に感謝の挨拶をいたします。ありがとうございます。
私は2001年に加藤博先生とキム・サンフン(ホン)先生の助けを借りて、北朝鮮を脱出し、2002年大韓民国に定住しました。これまで脱北者として成功したケースとして生活しております。加藤先生がおっしゃったように、この本は、私の父が北朝鮮で3ヶ月の間、刑務所生活しながら、北朝鮮の現実を経験したものをそのままを手書きで書いています。中国に密かに入って来て中国公安に逮捕されました。中国公安の人権侵害についても、ここにすべて書かれています。
1990年代、2000年代の初めまでは、北朝鮮は完全に閉じている社会なので、北朝鮮内部の事情を外の世界では、知ることができない状態でした。その当時、父の本が公開されるのは、本当に危険なことで、この本を受け取ること自体もとても危険なことであるのを覚悟して公開しました。
父は閉じている北朝鮮の現実を世界が知るべきである、と考えてこの本を書きました。そして、私たちが、北朝鮮社会でどのように生きているか、北朝鮮の人々がどのような待遇を受けているか、北朝鮮の現実を世界に知らせたいとのことでした。
私の父が北朝鮮で有能な機械設計の技術者だったので脱北後、北朝鮮では、私たちの家族を指名手配し、懸賞金もかけました。私たちの家族が、延吉市に住んでいる時、北朝鮮から国家保衛部の逮捕組が派遣されてきたことを知ることになりました。すぐに延吉市から抜け出さないといけないのに、助けてくれる人もいない困難な状況だったのです。私はその時両親が二人に会ったその瞬間を今でも覚えています。その時父が手記を直接渡しながら、加藤先生にお願いしていた話を私は鮮明に覚えています。私たちが韓国に行けない場合でも、この本は、必ず出版してくれ、と言いました。
加藤先生がその手記を受け取り、出版していただくことになりました。私たちが無事に韓国に入ってくると出版をすることに決めました。そして父母が、中国から韓国に逃げる道を選択しました。その決定はあまりにも危険すぎて、事故があるかもしれないものです。しかし、去ることも止まることもできない状況でした。両親は韓国に行く途中、朝鮮族の密告で逮捕され、北朝鮮に強制送還されてしまいました。ここまでが私が両親について知っている最後の状況でした。
その後、私が韓国に来て、その後の父母の状況を知ろうと、手を尽くして消息をたずねましが、分からなかったのです。
数カ月前、この本が出版されて18年の歳月を経て状況が分かりました。加藤先生が本の中で私たちの両親がどのように拷問を受け、いつ北朝鮮に送られ、母はどのようになり、父はどのように亡くなったかまで日本語で書かれていたのに、私は知らずにいました。最近この本を介して、両親がどのように強制送還されたのか、この本を見て分かりました。両親が逮捕されて、中国に一人残されたとき、日本の出版社が引き受けてくれたのです。出版社「晩聲社」の社長がまず前金を出し、出版を引き受けてくれて、私はそのお金で韓国に来ることができました。私は韓国に定住できたことを日々感謝していました。
父の助けが最も大きく、この手記を出版して韓国に来ることができるよう経費をくださったお二人に感謝します。父を思い出すたびにお二人を思い出していました。中国では、リスクを覚悟して、その手記を日本に持ってきて出版してくださったことに対してとても感謝しています。この本を出版してくださった出版社社長は昨年に亡くなったのを昨日聞いて、その方にお目にかかることができなかったことがとても残念です。昨日出版社社長から私に多くの資料をいただきました。私の両親から受けた写真資料すべて受け取り素敵なプレゼントだと思って感謝しています。
両親の犠牲とお二人の献身のお蔭で私が韓国にくることができて、私は本当に一生懸命生きるしかなかった。必ず両親とお二人に恩返しがしたかった。今までいろんなことがあり、加藤先生も多くの苦難を経ましたが、私の父との約束を守り、今までもそのことを覚えてくださって、私は本当に感謝しています。長い間、加藤先生は当時も、人権活動をされていましたが、歳月が流れて、今では、北朝鮮の人権から手を離し、楽に暮らしていらっしゃるかと、私は長い間思っていました。そして長い歳月の後に、偶然一ヶ月前に加藤先生と一緒に働いておられたキム・サンホン先生にも韓国で再会できました。
キム・サンホン先生も、北朝鮮の人権運動で、多くの人々を助ける活動に忙しく、私たちのことも次第に忘れられておりました。私はその出会いをきっかけに聞いてみました。加藤先生がいらっしゃるのかと訊ねると、ずっとそのような活動をしていらっしゃると聞きました。一ヶ月後に東京で会議がある。ここで加藤先生がいらっしゃると聞いたので、一緒に行くことを決めました。私は仕事を臨時休業して、私が経営している医院のドアを閉めここに走ってきました。私はその長い年月を変わりなく、今までに「北朝鮮難民救援基金」で精力的な活動をされた加藤先生に本当に感謝します。脱北者を代表して感謝します。
そして、この本を翻訳、編集してくださった方々に会ったのですがとても感動的でした。私は数ヶ月前にインターネットで父の本を探していて、韓国ではまだ翻訳されていないですが、この本が翻訳され雑誌に掲載されたことがありました。日本には村上龍という作家が父の本を参考にして小説を書いたという内容がこの本にありました。
私は韓国で徐々に定着し、豊かに生活して来ました。過去は忘れられない日々であり、過去を振り返るたびに命の恩人であるお二人と本を出版してくださった出版社社長、翻訳をしてくださったイ・サンハ先生に感謝しています。今後私も、北朝鮮難民を助ける活動に参加したいと思うようになりました。北朝鮮の人権に関心を持って来てくださったすべての方々にもう一度感謝の挨拶をいたします。ありがとうございます。
補足説明
<加藤 博>
この本を、私は十年ぶり読んでみたのですけれども、ここに私たちの名前がないのです。でも別人の名前が書いてあります。なんでこうなっているのかというふうに思うのですね。その当時2002年です。私のことは書いているけど私の名前ではないです。振り返って、この仕事するのがどんなに恐ろしいことかと思うのですね。私のことは書いているけど私の名前ではないです。もし私が本名で書いたら中国公安か北朝鮮の治安要員に拘束されたかもしれない。私も命がなかったかもしれない。どうしてそんな勇気があったのか分かりません。
<キム・サンホン>
私のあの時は本名ではなくほかの名前を使って働いていました。時代、どんなに恐ろしい時代であったかということを考えることができます。
<加藤 博>
もう一つ付け加えさせてください。この本が出るちょっと前に私が、中国の情報機関の安全部と公安部、中国の警察ですけれど、合同調査班によって逮捕されたのです。それはどういう理由かというと、北朝鮮と中国の国境地域で食料を配っていたのですが、もらった人がそのまま帰って誰にも見つからずに帰っていけば問題はないのです。しかし、途中で国境警備隊、警察に捕まると誰からもらったかと尋問されますね。それを頻繁にやっていたもので、中国の朝鮮族ではなくて日本人だと、仲間は加藤という風に言っていた、キム・カプトンという名前であった、という例もある。どういう素性の者かずっと調べられていた。そういう情報が一年くらい蓄積され、それで私が冬の靴と防寒具を供給するために中国の大連で活動をする人と打ち合わせをするために行った時に、私は中国の安全部と公安部の合同捜査チームによって拘束されました。それは必ずしも私の顔写真があったとかそういうことではなくて、私が同じ携帯電話を使って連絡をしていたというのが原因でした。携帯電話は一回の作戦ごとに携帯番号を変えることが一番安全な方法なのです。ところが、先もちょっと言いましたけど、お金をケチって同じ携帯番号を使っていた。これが拘束された最大の原因でした。そのまま運がよく、7日間の拷問の後に釈放されました。身にしみて、救援活動に金を惜しむなという教訓を他の人に言うようになりました。自分が借金しても活動する人には携帯番号は変える、日本で使っている携帯電話は絶対に中国に持っていくな、と徹底するようになりました。
やっぱり、中国の監視体制、盗聴する、メールを検査する、それは侮ってはいけないです。北朝鮮の能力が高いならば、中国の能力は更に高いこと、それをしっかり身に着け、習慣化しなければいけないです。
皆さんと縁がある脱北者をたすけるために中国から連絡をもらった場合は慎重にしなければなりません。はじめから監視対象になっている場合もあります。同じ番号を繰り返し使ったり、同じ名前を使ったりすると、せっかく助けようと思っても捕捉、逮捕され、助けることはできない状況になります。
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