門司港から唐戸に向かう船の上で、サンイル兄さんが私に尋ねた。
「テギョン、今向かっている場所の住所はわかってるのか?・・・」
「大和町か港町か、正確にはわからないんですが、高架下のトンネル、大丸(百貨店)、関釜連絡船の船着き場と海と巌流島(があるの)は間違いないんです。とにかく行けばわかるでしょ
う!」
考えてみれば要領を得ない答えで、広野で一軒の宿を探すようなものだったが、私にとって確かなのは行けばわかるということだった。家は変わることがあっても、海が変わることはない。毎日のように海に出て、クラゲと牡蠣を取ったりして幼年期を送った記憶は、56 年が経った今も鮮明だ。
やはり下関は、湿った空気と潮風が印象的だ。唐戸から下関行きのバスに乗り、終点で下りた。
私には大丸と関釜連絡船の船着き場、高架下のトンネル、海と巌流島だけが生家を探す手がかりだった。少し腰の曲がった7、80 代のおばあさんに道を尋ねようと話しかけた。
「すみません、大丸はどこでしょう?」会釈をして、日本式に礼儀正しく尋ねた。
「はい、この建物が大丸ですけど?」おばあさんは少し垂れた目で見上げ、下関駅とつながっている建物を指した。
「え?本当ですか?私は 56 年ぶりに戻って来たんですが、当時は 5、6 階建てで屋上に公園
があって、おもちゃの飛行機と展望台があったでしょう!・・・」
話終わらないうちにおばあさんは驚いて目を見開き、「ああ、それは 60 年代のことで、今は
ここに移ったんです。あの頃はあそこにある駐車場の場所が大丸でしたでしょう」と言った。
(そうだ、間違いなくここだった。10 年たてば山河も変わると言うのに、百貨店ひとつ変わっていないわけがないよな)
「それから、このあたりのどこかに高架下のトンネルがあったでしょう?」
「ああ、その高架はこっちの方に 50 メーター行ったところにありますよ、ついていらっしゃい。
ほんとに嬉しいですね」そう言っておばあさんが先に立って駅前を行き、昔の大丸の方に歩みを進めた。
「あの頃はその高架下に飲み屋みたいなところがたくさんありましたよね?」
私はもう一度確認しようと尋ねた。
「はい、今はもう全部なくなりましたよ」やりとりしながら 3、40 メーター駅を通り過ぎ、雨風を避けてトンネルが見える所まで案内してもらった。
「本当に助かりました、ありがとうございます、すみません」3 度続けて頭を下げて挨拶を返した。
またしても”日本人ならではの親切さ”に感嘆した。
サンイル兄さんとビニール傘を一本ずつさして、迷いながら雨の中を高架下へと向かった。サンイル兄さんには本当に申し訳なかった。雨風に傘が裏返しになり、粟の粒のような雨が右の頬に降りかかる感じもどこか馴染みのあるものだった。
◆心が急く、我が家はどこだ?
幼い頃、雨が降る日は母が港市場でレインコートを買ってきて、カバンと一緒に身に着けさせて
学校に送り出してくれた姿が思い出される。その時の天気も今日と同じだった。海風、雨、潮の香
りが 56 年過ぎた今でも皮膚にじっくり染み渡って懐かしかった。
横断歩道を過ぎて高架の下にさしかかった。両側に青や赤のネオンが光り、女性のくすぐったい
笑い声と、客のバリトンの声が色々な音楽に入り混ざって流れていた飲み屋街はもうなかった。そ
の時は長さ 150 メーターほどの高架下の道の両側に飲み屋が列をなしていたが、今は長さ 70 メ
ーター程度の、壁画で装飾された美しいトンネルに変わっていた。8 才の小さい視野で見た 70 メ
ーターの高架が、150 メーターもの長さに見えたのだとしても無理はない。この高架を通り過ぎ
たところに我が家があった。足より先に心が急いた。
トンネルが終わる先に、3 階建ての白いセメントの家が現れた。当時の 2 階建てのアバラ屋で
はなかったが、三角形の形は昔の我が家そのままであった。胸がジーンと熱くなった。
(おや?ところで海はどこだ?後ろに線路はあるんだが。間違いないんだがなあ。確かにあっ
たはずの海がないぞ。ここじゃないのか?)瞬間、高鳴っていた胸も石をぶら下げたように重くなった。(56 年間思い描いた故郷も探せないほどもうろくしたか。いや、三角形の角の家、高架下の
トンネル、線路、二股に分かれた道路、いくら見ても私が育った故郷の家だ。じゃあ 100 メータ
ー前にあった海は?)
家には”竹くらべ”という居酒屋の看板がついていた。午前 11 時頃だが店は閉まっていて、誰もいなかった。風で傘がまた裏返しになった。私は構わず横断歩道を渡り、店を開けていた酒屋へ向かった。
「ごめんください。私は 56 年前にあちらの角の家で暮らしていた者です。今あの家にはどなたがお住まいでしょうか?」
50 代半ばの店の主人が、必死な様子の私をいぶかしげに眺める。
「ちょっとお待ちください」
やせて小柄な体格に、正直そうな目をした主人の男性は、店のドアを開けて中に入っていった。
暫くして、これも小柄な 8、90 代の姿勢の良いおばあさんが、微笑を浮かべて出て来た。
「すみません、もしかしてここの前は海ではなかったですか?」
「はい、そうです。このすぐ 8 メーター前が海でした」
後のドアを開けて、庭を指して海だったと言う。
「その頃、左の方に港市場がありましたよね?」
私は申し訳ないほど差し迫った様子で尋ねた。
そうだ。海があったし、市場もあった、銭湯があった。すぐ隣は床屋だった。
「そしてこっちの方をずーっと上ると、“トンコル部落”があったでしょう?」
50 余年ぶりに聞く昔の町の様子と海の話に、おばあさんも嬉しげに話をする。
「ひょっとしてあの角の家に住んでいた、ツキモトをご存知ないですか?その人が私の父です」
「あー知っています。食堂をされていたでしょう。ミナミさんと親しくされておられましたよ。
ミナミさんも時々ここに遊びにきていましたよ」
突然涙が前を防いだ。こういう時に流れる涙がこんなにも甘いとは…。死んだ母の魂が生きて帰
ってきたくらい嬉しかった。
このような故郷訪問は、私ではなくて母がしなければならなかった。母が来ることができたなら
ば、今、目の前にいるおばあさんと感激の対面をしただろうと想像をしてみた。母の言葉が耳に響
いてきた。
「朝鮮という国は全てを我慢して耐える者だけが暮らせる社会で、正論を口にすれば捕まえられ
てしまう。言葉にはいつも気を付けろ!バカだと思われても黙っていた方がいい!」というのが我
が家の家訓だった。ラジオ放送を通じて金親子の罪と北朝鮮の真実をよく分かっていた私は、両親
と兄さんの教養*1の対象になった。失言すると政治犯収容所に入れられ、家族全員が連座制で収
容所に行くことになる。しかし母はいつの時からだったろうか、もう残り少ない自分の人生を知っ
てのことか、切実な想いを訴えるようになった。
韓国で 18 年、日本で 25 年、北朝鮮で 32 年を生きながら、(苦労もしたが)それでも人間らし
く生きられたところが日本だったと言った。一度でも行くことができるならば思い残す事はない
と。 *1 北朝鮮では強制的に教え込む意で使用
「テギョン!いつか機会ができて行くことが叶うならば日本に行きなさい!」
これが私の見た母の本当の姿であり、最後の言葉だった。北朝鮮でこのような本音を隠して 30
年余りを生き、自らの恨みをはらす息子は私しかいないということをよくわかっていたのだろう。
私は涙をこらえて母の魂にこう言った。
「母さんがあんなにも行きたがった故郷への想いを私が解きました。母さん、会いたいです。
母さんの魂を、思い焦がれたこの家に置いて行こうと思います」
人の欲は終わりがなかった。この場に、私でなく母が来られたら・・・という残念さはあまりにも
大きかった。生家の前で雨に降られながら写真を撮った。少し前には本当にここで合っているのか
と思って眺めた家が、故郷の我が家だという確信が持てた。船で 13 時間もあれば行くことのでき
る故郷を、56 年が過ぎた今でも訪れることが出来ないでいる姉のことが思い出された。脳出血で
床に伏しながらも、脱北するという私の話に羨望のまなざしで哀願をした姉だ。
「テギョン、私のことも助けてちょうだい。私も故郷に行きたいわ」
連れて行くことができない私は、胸が張り裂けるように痛かった。今も寝たきりでいる姉の姿が
鮮明に浮かんで来た。日本で中学校まで通った姉は、誰より故郷を恋しがり、日本にいる友達と担
任の先生にしょっちゅう手紙で連絡をし、贈り物を送り合ったりしていた。姉は小さかった私の手
を握って時々大丸に連れて行ってくれた。8 才だった私でも、幼年期を過ごした故郷に行ってみた
いと思うのに、15 才だった姉はどんなにか行きたいという想いが強いことだろう。
故郷というのは生まれた土地であり、幼い時分を過ごし、家族の和やかな幸福が宿ったところで
あり、いつまでも懐かしさがある場所だ。だからこそ生まれ育ったこの場所に来て、家族への想い
に突然喉がつまるように苦しくなった。家族皆が一緒に故郷に戻ってこられたなら、これ以上望む
ことはなかった。
泣きそうな心を奮い立たせて、関釜連絡船が発着する港へ向かった。船着き場と巌流島を見るた
めであった。子供の頃、目が覚めると毎日船着き場に出て、佐々木小次郎と宮本武蔵の武勇伝が残
る巌流島を眺めて育った。その時のその感じをもう一度胸に刻みたかった。
しかし雨が降ってパスポートをホテルに置いてきたせいで港に立ち入ることができず、翌日の
再訪を心に誓い、雨に降られながら、名残惜しい気持ちで港を後にした。
ホテルに戻ってから、窓の外に沈んで行く夕陽が見えた。海に映る夕陽は、世界の名画にも引け
を取らないほど見事だった。沈む夕陽は、明日再び昇る太陽が雄壮であるほど美しいという。今日
は見ることの叶わなかった巌流島があるから、明日また行こうという希望があり、その余韻を残し
て去る。前の家のおばあさんの名前と住所を知る事ができずに去ることが心残りだった。
しかしどこか寂しさがあるからこそ恋しく、そこに美しさもあるということを知った。次行く時
には、母の魂に会わせてくれた前の家のおばあさんと息子さんと連絡を取り、これからもずっと故
郷を大切にしていきたい。
また来ます、母国よ!下関東大和町 1 丁目よ!
2016 年 4 月 7 日 (完)