今年5月、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」に北朝鮮から脱北してきた女性(ユンヒ)が取り上げられた。偶然、番組を見ていて、すぐに画面に釘付けになった。韓国からやって来る元脱北者の妻の到着を成田空港で待っていた日本人の夫が、「僕の奥さん、北朝鮮から来た人なんですけど、面白くないですか?」と、取材チームに自ら声を掛けるという逆アプローチで話が展開するという珍しいパターンだった。 テレビを見ながら、すぐに恵美子(仮名)のことを思い出した。恵美子は今から二十数年前に脱北し、その後、日本にたどり着いた。以来、生まれ故郷の日本に住んでいる。安全地帯を求めて中国からカンボジアへと逃れる際、私は同伴者の1人として約3週間にわたって移動を共にした。 そうした経緯もあり、似たような境遇の女性に興味を抱くのではと思い、彼女に電話をかけた。 電話を繋げたまま、しばらく番組を見ていると、テレビに映っているユンヒさんと夫が、千葉で韓国料理店を開店させたばかりであることがわかった。それを知り、ユンヒさんの店「ソルヌン」に一緒に行ってみることにした。 開店前から行列のできる繁盛店 翌6月、お店のある千葉に向かった。恵美子と私に加え、都内で韓国料理店を営む元脱北者の女性姉妹と、小3になる私の次女も参加した。姉妹も恵美子と同様、今から約二十年前にやってきて、それからずっと日本に住んでいる。 午前11時半のオープンの前にお店に到着すると、すでに20名ほどの行列ができていた。50分ほど待って、ようやく店内に入れる。オープンして間もない店内は、まだ新しい。 私たちは、人気メニューの平壌水冷麺と、緑豆チヂミ、牛ポッサムを注文した。しばらくして出てきた料理を食べると、水冷麺のスープは出汁が美味しく、緑豆チヂミはカリっとした食感がとてもよかった。牛ポッサムもいい味だった。 食事中、恵美子や姉妹は、店主のヨンヒさんと話をしようと試みた。だが、お店が忙しくて、なかなか話す機会を見つけられない。ヨンヒさんがようやく自分たちのテーブルに来てくれたのは、食事が半ば済んだころだった。恵美子が話し掛けると、「韓国語」ではなく、「朝鮮語」だったせいか、彼女は驚いた顔をした。少々怪訝な様子もうかがえたが、恵美子や姉妹が彼女と同様に脱北してきたことがわかると、安心したような表情に変わる。姉妹が都内で韓国料理店を経営していると伝えると、ヨンヒさんは興味を持ったようで、「今度、必ず行きます」と答えていた。もっと話をしたそうだったが、とにかく店が混んでいて、話せたのはほんの数分間だけだった。それほどお店は繁盛していた。 帰り道、恵美子と姉妹、色々な話をした。恵美子たち3人は、「北から来たことをあんなに堂々と公表できるのは、すごい」と言った。「自分たちと違って、これからはヨンヒさんのような人が増えてくるかもね」と口をそろえる。「過去を公にできない心理的な抑圧から、いつになったら解放されるのだろう……」そんなことを考えたりもした。 ソルヌンでの食事には続きがある。8月、夏休みに次女とソウルを訪ねた際、ヨンヒさんの母親が創業したソルヌン本店に行ってみた。席に着き、「千葉のソルヌンにも行ったことがある」と店員に伝えると、店の奥から男性が出てきて、上手な英語で「私はヨンヒのブラザーです」と教えてくれた。英語だと、兄なのか、弟なのかがわからないので困る。こちらも人気のお店で、開店早々、店の前に行列ができていた。本店の料理も満足だったが、強いて言えば、千葉店のほうが美味しかったような気がする。有志を募ってソルヌンを貸し切れば、もっとゆっくり話ができるはず。近々実現してみたい。
人は一人では生きていけません。 ましてや私のように単身で脱北した人間が 言葉も通じない日本で国籍を取得して、 看護師免許を取り生活を安定させ、 家庭を持ち子育てをする ということが、多くの方々の数えきれない支えがなければ不可能であったのは間違いありません。 そういった方々の中には、存在を表に出してほしくないという人も含まれています。...
今回は「YOUは何しに日本へ?」*で紹介された北朝鮮料理「ソルヌン」について紹介したいと思います。ソルヌンの創業者は北朝鮮出身の方です。そのため本場の北朝鮮料理を食べられると人気のお店になりました。なんと創業者は脱北してきた方です。その方の紹介も含め記事にしました。...
10月23日午後7時過ぎ、成田空港到着ロビーに当基金の元教育里子チュンソンが柔らかい笑顔を湛えて姿を現した。1年ぶりの再会。出迎えたのは水府さんと私、そして現在都内で焼肉店を6店舗展開している元脱北者のT君。皆でT君の車に乗り込み都内に向かう。北朝鮮北部の街に生まれ8歳で孤児になり、中国に渡って当基金の養護教育施設で育ち、韓国に入ったのち英国に行き難民申請。現在は英国国籍を取得しているチュンソン。有給休暇で10日前に英国からソウルに来たこと、職場を変わり、現在はロンドン南郊の韓国料理や鮨などを出す店で働いていること、K―POPや韓国の映画、ドラマなどが今英国でもブームとなっており、店も賑わっていることなどを車中で話してくれた。 私たちはT君に案内してもらった彼の店で、おいしい焼肉をご馳走になった。 翌24日は、20年ほど前チュンソンが韓国にいたころお世話になったある大手通信社の記者が、彼を上野の国立博物館や西洋美術館に連れて行ってくれた。25日には彼は一人で銀座に出かけたと言っていた。 26日、鎌倉の裏道山道にも精通している私の俳句仲間に案内してもらい、チュンソンと一緒に鎌倉を歩いた。日本で看護師となって働いている元脱北者のSさんも同行、4人で妙本寺から祇園山ハイキングコースを辿り、見晴台から相模湾を眺めたりした後、鶴岡八幡宮に出た。その後江ノ電で片瀬海岸まで行ったのだが、チュンソンはひとりで日の傾きかけた波打ち際まで行き、しばらく佇んでいた。 27日には、やはり元脱北者で5年前に日本に入国した一番若いR君がぜひともチュンソンに会いたいと来てくれて、二人で都内を巡ったとのことである。そしてその日の夕方は早稲田大学の金敬黙先生に招かれ、加藤代表理事と共に早稲田の教授や学生たちとの意見交換、懇談会に出席する、という多忙ぶりだった。 28日午後は文京区内で「チュンソンを囲む会」を開いた。当基金創設時のメンバーだった李さんには通訳をお願いし、原田弁護士ご夫妻や遠く大分市から会員の諫山さんの参加も得た。 チュンソンたちが韓国に入国許可されるまでの波瀾万丈の行程や、中国から、ベトナム、カンボジアの山、ジャングル、川を越えた話に耳をそば立てた。 現在の彼の暮らしや考え、さらには参加者各自の体験について等々、熱っぽく濃密に話題が展開された。その中で、チュンソンは韓国に一度は定住した若い脱北者たち5人で一緒に英国に渡り、定住ビザも得たのだが、そのうちの3人はその後韓国に戻ってしまったことに触れ、「自分はプライドが高いのかもしれないが、韓国に帰ろうとは全く思わなかった。英国で頑張って生きていこうと思った」と語ったことが極めて強く印象に残っている。 「囲む会」のあとは夕食を兼ねての懇親会。こちらにのみ参加という方も加わって人数も増え、いろいろな話題が飛び交い、非常に楽しく盛り上がった。 そしてその晩からの2泊3日、数年前に資格を取って起業し、経営者として頑張っている元脱北者の女性Mさん宅でチュンソンはお世話になった。29日には家庭の味を楽しんだ。 翌日はMさんの属している教会の日曜礼拝に、クリスチャンである彼は一緒に行ったのだが、その教会の牧師が彼のために英語で祈ってくれたという。彼は嬉しかったことだろう。 11月1日、日本滞在最終日、滞在中に会った一人ひとりに電話やメールで感謝を伝えてくれた後、彼はソウルに戻って行った。彼にとって充実した楽しい10日間だったなら私たちも嬉しい。爽やかで優しい人柄の彼にまた会いたいと、多くの人が思っているだろう。 彼の健康と幸せを私は毎日祈っている。
230215 東亜日報 北朝鮮兵士への食糧配給を縮小、「2000年代に入って初めて」...
230206 中央日報 「北朝鮮の開城で1日数十人が飢死…食糧難は深刻な水準」 北朝鮮最大の都市のひとつの開城で飢死する人が続出している状況がとらえられたことがわかった。...
北朝鮮で経験した私の大学試験 韓国で修能(大学修学能力試験)当日は大騒ぎだ。北朝鮮にも受験がある。修能とは言わず、大学ポント(대학뽄트)を得る試験という。私は、1974年2月に大学に進学する試験を受験した。私が住んでいた平南道恩山郡では、郡内三校の高等中学校が試験場だった。...
これは5月20日、毎日新聞の東京版夕刊に掲載された論説委員の花谷寿人氏のコラムです。...
書評にかえて ― 脱北者救援をする立場からの視線...
おはようございます。苅谷玲(編集部注:安全のために仮名)です。 まず、もう死んで終わったと思った私を、日本まで来るように努力してくださった人権団体の先生方に感謝を申し上げます。日本に来てまだいくらも経っていないが、北朝鮮の人に何人か会いました。...